そうか、だから書けなかったのか【『書く習慣』を読んで】
アマゾンプライムリーディングのリストにあった いしかわゆきさん著『書く習慣』
ふと気になって読んでみて、以下1番ささった部分
まずはその「メイク」を脱ぎ捨てよう
文章も「誰かに見せるもの」となると、途端にかしこまって、身構えて、綺麗事ばかりが並んだものになりがちです。
本人が意図しなくても、バッチリメイクの余所行きの顔をした文章になってしまうんです。
たとえば「あの上司はほんとクソだわ」という本音も、人に見せるとなると「あの上司はいい方がキツい。いや、いい人なんだけどね」ぐらいにマイルドになります。
もはやちょっと嘘ですよね、これって。
刺さるー。
特に
"もはやちょっと嘘ですよね、これって。"
の部分。
文章書くのが好きなのに、なんだかいつも書くのが億劫だった。1つの投稿をするのにとんでもない時間を費やしてた。自分では等身大の自分を表現してるつもりだったけど、それはナチュラルメイク風のゴリゴリメイクだったと気づいてしまって、なんとも恥ずかしい気分に。
人の目を意識しすぎる癖はこんなところにまで影響を及ぼしていたなんて。
そんなこんなで本書を読み終えて、もっと書くことを生活の一部にしたいなという思いが自分の中でじわじわ盛り上がってきた。
本でオススメされていたワーク『1ヶ月書くチャレンジ』をまずはツイッターで始めてみた。無駄な言葉を省く必要があるから、気軽に取り組めて楽しい。ブログには同じテーマを後追いで補足したり深掘りしたりすることで書く習慣をつけていきたい。
大先輩の言葉
何年も前、結婚もしていなかった頃に職場の大先輩(男性)から言われた言葉
"いつかお母さんになったとき、家庭でまで先生になったらダメだよ。家庭で我が子にも先生をやってしまう人がいるんだけど、それでは子どもがかわいそうだ。家で子どもと過ごすときには、ちゃんとお母さんになってあげてね。"
当時は、なるほどなあくらいにしか思っていなかった。でもずっと頭の片隅には残っていて、きっと忘れちゃいけない言葉だなって直感があった。
子どもが生まれてからも時おり思い出してはいた。でもこの言葉の本当の意味が身に染みるここ最近。
この言葉って、対象は先生という職業の人に限らないと思っている。先生(評価する)のフィルターで自分や周りの人を見ていることって往々にしてあるんじゃないかなと。
今日も今日とて反省の日々。
私はきちんとお母さんになれているのだろうか。
私は私を生きられているのか。
人生の指針になっています。
先輩ありがとうございます。
私が一番手放すべきだったこと
振り返ると、小学生の頃あたりから自分の足りないところばかり見つめる癖が顕著に出ていたと思う。
自分のここがもっと〇〇だったらいいのに。
なんで自分はこうなんだろう。
自分はダメだなあ。
いつもいつも思っていた。
自分に自信がもてない。
だからこそ、人が眩しくて羨ましくて。
自分に価値を感じられないから、人と群れることに必死になる。人と一緒にいることで自分の価値を確かめる。
もっと素敵なあの人になりたいなんて考えては、どうしようもない自分の人生を誰かバトンタッチで続きをいい具合にしてくれないかなあなんて出来もしないことを考える。
不足感からくる欲求は、大人になるにしたがって物やコトで自分を鎧のように武装させる。
メイクをゴリゴリに濃くしてみたり、流行っている服を着てみたり。少しでも可愛くなりたい。人から"オシャレな人"に見られたい。そんな基準で何か買っても、手に入れた時の気持ちはすぐに色褪せ、自分も古くなってしまったような、価値がなくなってしまったような感覚になる。いつも感じているのは不足感。
あれが足りない、これが足りない。
ないないないないないこと探し。
そんな感じだから自分の感性にまったく自信がない。人真似してそれっぽく装うハリボテみたい。
思い返すと、方向性は間違っているかもしれないけど必死だったんだなあ。よしよしって頭をなでてあげたくなる。
妊娠期にミニマリストという存在を知り、今の自分から変われるかもしれない!と思って、物を手放し始め、のめりこみ早5年。
手放しても手放してもどこか満たされない何か。ミニマリストの人が、"物を減らすと見栄や執着心が手放せる"と言っていて、分かる!と思いつつも腑に落ちない部分があった。
私が1番手放すべきだったのは、足りないところ探しをしてしまう自分自身だったのかなと思うに至った今日この頃。
たくさんのモノやコトを手放して、一番手放すべきことを発見できた。
ないものを探して嘆くより、あるものに目を向けて大事にしたい。
明日はもっといい日になる
ブログを始めた時、毎日続けようって決めていた。その志、3日ともたず。というか初日のみ。
勝手に気負っちゃって頭の中でどんどんハードル上げちゃってたなあ。
どんどん下がる自己肯定感。
目標設定を完全に間違えてた。
仕切り直していこう。
次の目標
毎日アプリを立ち上げる。
これならいけそうな気がする!
5時間1人で出かけたら感謝が溢れた
子が生まれて5年。5年ぶりに10年来の友達と夜の食事に行ってきた。
子どもができてからは、友達と会う機会はあってもお互い子連れ。子どもたちを中心にした会話になることが多く、会話をしていても子どものお世話や何やかんやでバタバタ忙しなく、なかなか落ち着いて話すことが難しい。会話内容も限られる。
子ども抜きで、しかも夜に出かけるなんてまだまだまだまだ遠い先だと思っていたのだけど、友達が誘ってくれました。子どもたちのことを快く引き受けてくれた夫の協力もあり、実現の運びに。
どきどきそわそわいざ出発。
1人で出かける荷物の少なさよ。自分のスピードで歩く軽快さよ。子どもたちが騒がないように気を使うことなく電車に乗る身軽さよ。
子どもの好みを気にせず、食べたいものを注文できる自由さよ。中断が入ることなくとりとめもなく話し込める楽しさよ。
全てがあまりにも自分のペースで事が運びすぎて不安になるほど。
何もかもが久しぶりの感覚に少し緊張。
たまには1人の時間を過ごしたい。
常々思っていた。
仕事復帰の目処を延期しまくって、子どもたちとの時間を優先したのは自分。そうさせてもらえた環境に本当に感謝してる。それなのに贅沢な悩みと分かっていても、不自由さに窮屈な思いを感じてしまう時があった。
でも
子どものことを気にせず、思い切り話し込める時を過ごしたいと時間をつくったのに、お互い話している内容のほとんどが子どものこと。結局ずっと子どものことを考えてる。
お互いお母さんになったんだなあ。
子どもができるまでは、友達と気ままに過ごす時間は当たり前の日常だった。ほとんどの時間が自分のために使える時間だった。それが、こんなに特別な時間だったなんて知ることもなかった。あの頃当たり前にもっていたものが、こんなにも噛み締める幸せな時間だったなんて。
それに気づけたのは今の自分だから。そして、子育て真っ只中の今この時も過ぎ去ればなんて幸せな時間だったと、また過ぎてみて本当の意味で実感するんだろう。今が大事な一瞬だと分かっているはずなのに、感謝の心を忘れがち。
願わくば、今このときを余さず楽しみきれる心の余裕を。
全てに感謝の気持ちが溢れる幸せなひとときだった。
はじめの第一歩
初めてのブログ
ずっとやってみたかったけど 考えすぎて二の足を踏んでいたブログ
何においても考えすぎて結局いつもやる気を自分でしぼませる
何も行動を起こせない日々から脱するための第一歩
一歩目を踏み出せた自分に
おめでとう!